市原稲荷神社は、いわゆるお稲荷さんとしてこの地を支配した領主の崇敬するところで、歴代の領主から神田の寄進などがありました。天文2年(1533)水野忠政は刈谷城を築いてここに移りましたが、今川勢と織田勢にはさまれた苦難の時代でした。永禄3年(1560)今川義元が西上して桶狭間の合戦となりますが、このとき今川軍の狼藉によって神社の社殿も焼き払われる苦難にあいました。しかし同五年社殿は城の隅に南面として再建され、歴代城主は今まで以上に神宝を奉り、兵器を整え、崇敬を強めたといいます。
刈谷藩主は代々市原稲荷神社に社領などを寄附することが習わしとなっており、文禄3年(1594)父忠重の跡をついで刈谷藩初代の藩主となった水野勝成が、社領を寄附した文書に上の図のようなことが書いてあります。
以後代々の藩主はこのような文書を提出して社領を寄附しています。水野勝成は毎月1日に祭祀を行い、神興の巡行が行われ、城外では身分の高い低いの関係なく人びとは神幸を拝しました。
市原稲荷神社は稲垣氏の時代から知立大明神・野田八幡宮とともに領内三社として尊崇を受けました。稲垣重昭が承応3年(1654)4月重い病気に臥した際、医薬をはじめあらゆる手当にもかかわらず病状が一向に回復しませんでした。最後に神主が祈祷して、城内にまつられていた稲荷に対し、思わぬうちに不敬の行為があった神罰のためと悟り、重臣に命じて神社の拡張工事を進め、稲荷祠を神社に合わせ祀ったといいます。
のち寛政2年(1790)いわゆる寛政一揆によって野田八幡宮を含む刈谷領1万3000石が、奥州の福島領・幕領の一部と村替えになってからも、市原稲荷神社は知立大明神とともに崇敬厚い社でありました。藩主が入部すると、市原稲荷神社と知立大明神に参拝するのが例でした。 祭りの記録を見ると、四月祭りの4月2日、行列が市原口門から城内の櫻馬場・大手門を経て、金ヶ小路をへて町口門前で休息するとき、藩主が長裃で参拝することが例になっていました。 土井氏二代藩主土井利徳は、和歌のほか蹴鞠(けまり)・茶道にも通じた文人大名で、参勤交代で入部しても刈谷で蹴鞠を楽しみ、市原稲荷神社に蹴鞠の鞠を奉納しています。明治28年の「什物取調書」に「安永2年(1773)2月11日土井利徳寄附」の記載があります。